第58代横綱の千代の富士のことを思いだすとき、その強さゆえ、あまりにもあっけなかった生涯が残念でなりません。
千代の富士は本名を秋元 貢(あきもと みつぐ)といい、北海道松前郡福島町に生まれました。
福島町には千代の山と千代の富士の記念館があります。二人の名横綱がこの町出身です。
千代の富士の生い立ちから入門まで
1955年6月1日、漁師を営む家に生まれました。
小さいころから家業を手伝っていたので足腰が鍛えられたのでしょう。
中学時代は陸上競技の選手でした。
中でも走り高跳び・三段跳びは松前郡大会で優勝するなどして、将来はオリンピック選手になれるのでは、と注目されるほどでした。
ではなぜ相撲の世界に入ったのでしょう。
こんなエピソードがあります。
それは中学1年の時でした。秋元少年が盲腸になり手術をした時のことです。
医師がいうには、お腹の筋肉が厚いため所定の時間に終わらせることができなく、麻酔が切れてしまったのだそうです。
秋元少年は痛いのを、歯を食いしばって耐えたのだそうです。
このお医者さんがピンと来たのですね。
この時は既に福島町から横綱千代の山が出ていました。
その時のつてで、九重部屋北海道後援会の世話人さんから九重親方(千代の山)に「すごい子がいるぞ」と連絡がいったのですね。
親方が飛んできました。
ですが秋元少年は相撲が嫌いでした。両親も反対でしたから、にべもなく断られてしまったのです。
ここで諦めていたら、のちの大横綱千代の富士は存在しなかったのです。
親方は諦めませんでした。
親方も素質を見るのに長けていたのですね。
「中学の間だけでも相撲をやってみないか」
「東京に行くなら飛行機に乗せてあげるよ」と、いったん九重部屋に入門させてしまったのです。
九重部屋入門後
秋元少年は親方との約束で東京の中学に通いながら相撲の稽古をしていました。
中学3年生で本名のまま1970年9月場所初土俵を踏み、翌11月場所で序の口から「大秋元」の四股名での出発でした。
※その後中学在学中の入門は1971年11月に禁止になりました。
1971年の1月場所では序二段に昇進すると四股名も「千代の富士」に改められましたが、秋元少年はというと、相変わらず陸上競技が好きでした。
相撲はというと、その反対でしっくりこなかったようです。
約束通り、中学が終わったら国へ帰ろうと3月場所の後、
荷物も送り返してしまいました。
さて弱った親方は故郷の後援会会員に世話を頼んで千代の冨士を明治大学付属中野高校定時制へ進学させることで、今少し相撲を続けるように促したのです。
えこひいきだと、千代の富士はだいぶ兄弟子からいじめられたみたいですが、
ここら辺が彼のすごいところで「なにくそ!」となるんです。
高校を中途退学して今度は相撲一本にするのですから。
その後も怪我などがあり買ったり負けたりと、足踏みしましたが、19才でとうとう十両に上がるのです。
そのころは体重がまだ90キロ台で細く、相撲はというと逆に大技で相手を倒していたのです。
そんな取り口でも、1974年11月場所で19歳5ヶ月にして十両に昇進。
四股名の「千代の富士」は5文字と珍しく、史上初の5文字四股名の関取誕生でした。
脱臼との闘い
力任せの強引な投げ技で相手を振り回す相撲ばかり取っていたので
常に脱臼という怪我に付きまとわれ、その回数は公式でも7回という多さでした。
1977年10月29日に九重(千代の山)がなくなったのを受け、北の富士が九重部屋を継承することになりました。
新しく親方となった北の富士は、千代の富士に脇を締めて左の下手を取って引き付ける相撲を身に付けるよう指導したのです。
脱臼には肩の筋肉を鍛えることがその予防になる、と千代の富士は1日500回の腕立て伏せを自分に課していたというからすごい信念です。
その筋肉ムキムキの引き付けと、右からの出し投げが相乗効果を発揮して、ここから千代の富士の快進撃が始まります。
大関になったころでも体重はまだ130キロに届かず、相変わらずの小兵でしたが、スピードと技のキレ味は一級品で、彼の相撲は多くの大相撲ファンを魅了し続けました。
千代の富士は左手小指のツメは切りませんでした。「まわしは小指でとれ」が基本で脇を締めるため。千代の富士は擦り切れて切る必要がなかったといいます。
そんな話が残るほど左の前まわしを取るのが素早く、前まわしを引き付けられると体が浮いてしまい、なすすべがなかった、という力士の証言もあるほどです。
1988年5月場所7日目~1988年11月場所14日目まで実に53連勝を記録。
1989年には力士として初の国民栄誉賞を受賞。
1990年には前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成。
優勝回数も30を超えました。
引退後は一代年寄を許されるなどしましたが、それを辞退して、
北の富士から名跡交換で九重を襲名。
しかし僅か61才、2016年7月31日17時11分、膵臓がんのため、東京大学医学部附属病院で死去。
後にも先にも、こんなにすごい力士を知りません。
その精進する姿はすべての人に勇気と希望を与え続けることでしょう。
残念で仕方がありません。
コメント