
相撲協会提供
若隆景は、あの大震災があった福島県、の出身です。
学法福島高校に進学した翌年、2011年3月11日に東日本大震災が起こりました。
その時は高校の土俵が壊れ、荒汐部屋で避難生活をしていたそうです。
3年生の時、全日本ジュニア体重別相撲選手権大会100kg未満級優勝、世界ジュニア相撲選手権大会団体優勝・軽量級2位などの実績を残しています。
高校卒業後、兄の二人は大相撲に入門したのですが、彼は東洋大学法学部に入学する道を選んだのです。
4年の時全国学生相撲選手権大会で団体で優勝、個人で準優勝の成績を残し、大相撲の三段目最下位格付出資格を獲得したことで、大相撲入りを決意しました。
目次
若隆景は相撲一家の三男
若隆景の父親は父は幕下・若信夫 で、祖父は小結・若葉山(12代錣山)です。
兄も幕下・若隆元と幕内・若元春という相撲一家に生まれました。
若隆景が兄弟の中では一番弱かったそうで、
大相撲入門には迷いがあったのでしょう。
自身はのちに、大学に進んだことで体も鍛えられ、相撲もうまくなったと、のべています。
下の三兄弟の画像ですが、真ん中の若隆景が一番弱そうですね。

日刊スポーツより
そんな三男が今では兄弟の中では一番上の番付にいます。不思議ですね。

東京新聞より 福島市をPRする「ふくしまエール大使」に就任した若元春(左)、若隆景(左から2人目)、若隆元(右)
大関昇進の条件とは?
一般に言われています、直近三場所の勝利数合計が33勝以上というのはどういうことでしょうか?
必ずしも33勝を挙げなければ大関になれないという規定はありません。
過去にも33勝に満たないで大関に昇進した例はいくつもあります。
最近になってからは朝乃山の例があります。
朝乃山は小結で11勝4敗、東関脇で10勝5敗
そして次の場所が東関脇で11勝4敗でした。
合計が32勝でしたが大関に昇進しました。
番付会議で話し合われた結果、大関にふさわしいと判断されたからでしょう。
優勝したり、横綱に勝ったりなどが重なればまた違った判断が
されると思います。
ただ、若隆景の場合ですが、彼は二桁勝利を挙げても、
次の場所が9勝だったり8勝しか挙げられないといったことがあり、
朝乃山のような安定感がありません。
ですから、今場所は13勝を挙げて合計が32勝では優勝でもしない限り
難しいと考えます。
14勝なら当然、優勝でしょうから33勝にもなりますので
昇進すると考えます。
横綱が不在で優勝しても、私は13勝では認めたくはありません。
なんといっても7月場所の8勝7敗がいただけませんしした
先場所の初日から3連敗した相撲内容が悪すぎます。
これからの課題は?
若隆景のこれから横綱を目指していくための課題ですが
若貴景は果たして横綱になれるのかどうか?
そう問われたときに
誰しも頭の中では「うーむ、5分5分か、どうか・・」と首をかしげるでしょう。
これが朝乃山だったら、即答で
「なれますよ、そのうち」となると思います。この違いはいったい何なのでしょう。
一つは若隆景の成績が安定しないことがあると思います。
先場所こそ11勝4敗と好成績でしたが、これとて、初日から3連敗したりしています。そこから11勝するのですから地力があるのは認めますが。
その前の七月場所などは8勝7敗です。
また、負け方が悪いのです。
映像を見るとわかりますが自分より体格が勝っていて、馬力のある相手には
苦戦しがちです。
自分より相手が大きくても動きの鈍い相手なら何とかなりますが、
そうでない場合ちょっと腰高で立つと押され負けします。
細身で軽いので動きは速いのですが、足腰と腕力もまだまだ弱い印象です。
似た体系の力士に横綱千代の富士がいますが筋肉のつき方が全く違います。

文春オンラインより
それと、
千代の富士は前みつを取って強い引付から一気に押す相撲の型ができていました。
ただ、これから稽古をしながらですが、体重があと10キロ増えれば相当勝てると思います。
そうなれば上が見えてくるのではないでしょうか。
後、やっぱり四つ相撲が取れるかどうかでしょう。
まわしを引きつける力がまだまだ弱いと思います。
若隆景はあの東北大震災があったときのことを後にこう語っています。
今まで体感したことない揺れ。縦揺れが来て立ってられなかった。校庭に避難した後、雪が舞い始めて体育館へ移動したが、恐怖心が消え去ることはなかった。相撲部の稽古場は土俵が隆起し、壁はひびが入った。学校は休校。東京電力福島第1原発の事故も発生するなど深刻な状況が続く中、長男が所属する荒汐部屋から誘いを受け2人は東京での生活を決断した。至るところで陥没する道路を父が運転する車で上京。休憩所では泣き叫ぶ人の姿、ハンドルを握る父も涙が止まらなかった。父は述懐する。「福島には帰ってこられないと思った。息子たちも何が何だか分からない様子だった」
東京での避難生活は1カ月に及んだ。当たり前だった日常が奪われ、テレビなどで視界に入る現実を受け入れられない。当時本名の「大波」を名乗っていた長男はインターネット中継の画面で「不謹慎なしこ名」と書き込まれるなど理不尽な中傷も問題に。何度も気持ちは折れそうになったが、部屋の力士らの励ましが支えになった。